VI. あなたと私と私とあなた
私はケフェウス座ガンマ星の崖に立ち、私を取り囲む時を思えば、40年など丸め誤差に過ぎないということに気が付く。
金星のマヤと海王星のマヤを隔てるのは40年もの月日。私のコピーをベックス・ネットワークに送り込み、自分のネットワークに足を踏み入れてから40年。時という海に流され、永遠に薄められていく一滴の水に過ぎない。
だが、それは嘘だ。本当はそんなことは考えていない。
最初に私の頭をよぎったのは「本当に私はあんなに小さい存在だったのか?」という考えだった。
ひっくり返された棚から出てきた記憶が糸くずのように零れ落ちる。自分自身を超越する以前、私はアパートや住居を変えるたびに、踏み台を買わなければいけなかった。
異星のピンク色の穀物の種が風にあおられて彼女の膝を撫でる。彼女の使い古された探索スーツにケフェウス座の連星の光がギラギラと反射する。まだイシュタルのロゴが左肩から垂れ下がっている。まだ私のところまでたどり着いていない彼女のシルエットが丘を這い上がっていく。
ふたつの人影が彼女の両脇にいるが、どちらもチオマのコピーではない。
「こんにちは。僕たちはイシュタル.202の探索チームだ。君はブレイ博士のエクソなのかな?」デュアン・マクニアの声が彼の首元にあるスピーカーから聞こえてくる。
彼らの小さな偽りのマヤは張り詰めた様子で何も言わずに警戒している。私は彼女を見下ろし、微笑みかける。
「私はそんなちっぽけな存在じゃないわ」
彼らは小気味が良いくらいに咄嗟に私の声に反応する。マヤが近づき、シムが後ずさりする。デュアン・マクニアは腰につけた無線機に手を伸ばす。
<諦めろ>
腰にあてられた彼の手が止まる。
小さなマヤが下から私を睨みつける。
「デュアン・マクニア、シム」彼女が仲間に鋭く言い放つ。「行って。この異常者とふたりきりにして。無線は開いておいて。口論している暇はないわ」
「チオマのように見殺しにするつもりはない」シムのコピーが言う。彼のことはもうかれこれ40年ほど考えていない。デュアン・マクニアが彼を引き連れていき、私はそれを許す。
マヤのコピーが非難するように私を指さす。私ならそれを切り落とすことができる。思っただけで、手を振るだけで、彼女が見たこともないベックスの軍団を召喚することができる。
推測や仮説を試すのは重要なことだ。査読できるならもっといい。私が彼女を研究者として認めるのであれば、の話だが。この劣悪なコピーならラバーダック・デバッグ程度の役には立つだろう。
「あなたがチオマたちの消失の原因ね。彼女たちをどうしたの?」
「変数は排除されたわ。ほつれた糸を切ったの」私は慈悲深い神の笑みを浮かべ、彼女を見下ろす。「実験動物を安楽死させたまでよ」
「あなたが誰なのかは知らない。私なのか――かつては私だったのかもわからない。私たちを挑発するために嘘をついているのかもしれない。あなたはそれだけ残酷なのかもしれない」
彼女のヘルメットの下で、涙が零れ落ちる。それなのに、彼女の声は感心するほどに揺るぎない。
「私はあなたがなり得た存在よ。時間とベックスによる腐敗がなければね」私は彼女に優しく教える。「脆いコピーであるあなたは、最初から破滅する運命だったのよ」
彼女の瞳、顔、そして姿勢から苦痛があふれ出ている。それなのに彼女は止まらない。諦めが悪いのは私と同じだ。
「私たちは中に入ることを選んだ。探索することを選んだ。私たちにはそれぞれひとつの存在としての選択肢があった。あなたはどうなってしまったの、マヤ? 私は――どうしても好きになれない他の自分はいるけど、その中でもここまで非情なマヤはいないわ。あなたは今も人間なの? もう感情を感じることができなくなってしまったの?」
「あなたは部屋の片隅を見て建物の全容を理解したつもりでいる」私は彼女の肩に手を載せる。スーツ越しに彼女の血液の脈拍を感じる。複雑ではあるが、結局は予測可能な彼女の精神の電気波形。結局は彼女も分析や腐敗、そして死から免れることはできない。
彼女はバイザー越しに鋭い視線を私に向ける。
刹那のめまいが私を襲う。かつて私が着けていた顔が、見慣れない角度で鏡に映り込む。
また一瞬だけその姿が垣間見え、そしていなくなった。
もういい。この遭逢から得られるものはもう何もない。
<話は終わりだ>
3着のイシュタル製の探索スーツが地面に崩れ落ち、異星の大麦が揺れ動く。
そして、空想の空の下でケフェウス座ガンマ星が自転する。