The Grimoire Archive
グリモア トラッカー 書物

Phot0n

データの断片が無限に伸び、絹のように細い糸で世界が編み込まれた中で、Phot0nは客観的な存在を主観的な視点で定義するデータに触れながらぼんやりと漂っていた。クラウドアークの奥深くでは周囲の世界がほつれ、自身とコードの境界線は失われていた。ファイルリクエストは肌の上を這うアリのように感じられ、生理的に必要な休憩や夕食の誘いなどの実在世界の汚くなりがちな欲求から解放されたい時は、ロックダウンのおかげでいくらでもここにいることができた。 背伸びをし、気持ちを整えてから、浅瀬に視点を戻した。データの影が見慣れた通りや建物などの風景の印象を表す。普通の人たちは面倒な信仰のように取りついていたが、そこはゲームの在り処でもあった。Phot0nはコマンドプロンプトを開いて、その日にまとうアバターと性別を選択し、ふたたびクラウドアークの浅瀬の通りや広場に向きなおる。 浅すぎる、とPhot0nは思った。 熱心なアークヘッドたちが作り出した前衛的なデザインに混じって、実在世界から再現された店舗や家具、植物が空間に入り込んでいる。都市議会は環境の変化に慣れやすくするために大通りの大部分を区分けしなおしたが、古い世界を持ち込んでは折角の新たなフロンティアの意味がない。 「ううん、あれ? 何かヘンだな」近くの背の低いアバターから抑えられたパニックの音が漏れる。その外見はほぼ人間だったが、左側の眉と頬骨が恐ろしいほど傾いていた。 「ダイジョウブ。手を貸そうか?」Phot0nは困惑する訪問者に歩み寄る。歪曲は見ているだけでも痛々しい。 「何をしたか分からないんだけど、元に戻せなくて!」 「分かった、とりま落ち着き優先で。今、直すから」今の言葉を男が理解したようには見えなかったが、彼の仮想化された息遣い――いや、ここでは誰も息をする必要はないのだが――はややゆっくりになった。Phot0nは彼のアバター設定を開いて目を通す。「どうやったのか知んないけど、アバターの上位設定を解除したみたいだ」 「直せるかい?」 「屁でもないよ、ギルディ」Phot0nは新参者の最後のオートセーブを読み込みなおす。すると相手のアバターは標準的な人間の見た目に戻った。「このメニュー使うつもりなら、勉強したほうがいい。でもまた起きたら、ここを押せばいいから」 「ええと、ありがとう… ギルディ?」 「オールグリーン」とPhot0n。「誰だって最初の一歩は踏み出すもんさ」